2008年8月22日(金)
小栗上野介忠順 幕末、米国から持ち帰ったねじ
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近代化、「ねじ」が担ってきたその功績は数値、言葉では表せないほど多大である。アルキメデスの揚水ポンプ、レオナルド・ダ・ヴィンチのタップダイスによるねじ加工原理と、世界の歴史に名を連ねる偉人たちが螺旋構造の「ねじ」に纏わる発明・応用など、時代時代に応じた後世の近代化のための技術革新の指標となる「ねじ文明」を積み重ねてきた。
わが国では、1543年に種子島へ漂着したポルトガル人の所有していた火縄銃の模索を命じられた刀鍛治職人・八坂金兵衛が、火縄銃の銃底を塞ぐ尾栓に使用されていた雄ねじと、尾栓をねじ込むために成形された銃底の雌ねじを見たのが国内で初めてとされている。また、火縄銃製作には欠かせない構造部品として製造したのも初めてであり、鉄砲伝来と共に国内におけるねじの歴史が幕を開けたとしている。
現在の「ねじ」は、その果たす重要な役割から品質・環境・安全等と多様な要素が求められ、数十万・数百万にもおよぶ多彩なアイテムが複雑化したニーズを満たす機能をそれぞれに備え、単なる締結部品から日本が世界に誇る“モノづくり”にとって不可欠な基礎部品となっている。
産業の塩、身の回りから1メートルも離れていない所に使われている。と言われてきたねじではあるが、今やメガネ・時計・携帯電話など我々の必需品にも多様に使用され、基本の螺旋構造は変わらないものの用途に応じて形状・材質・機能などは日進月歩で進化を遂げている。
このねじの進化、発展の布石は幕末にまで遡る。新たな時代を迎えようと静かに潮流が動き始めようとしている最中の万延元年に、遣米使節目付として海を渡った小栗上野介忠順が米国より持ち帰った土産の中に「ねじ」があった。小栗は、のちの日本の近代化、工業化の第一歩を踏み出す立役者となって、横須賀造船所建設など“鉄”を根底にしたインフラ社会の構築へと取組み、同時に物と物を締結する部品としてねじが多用されていった。ほかにも日本初の株式会社設立、郵便制度・鉄道の提唱など活躍をみせている。
小栗上野介忠順は近代化の父とも言われ、同氏の菩提寺である群馬県高崎市倉渕町の東善寺には様々な遺品が展示されているほか、住職の村上泰賢氏が多くの功績を語り継いでいる。
去る、平成15年(2003年)8月に銀座松屋デパートでのねじ展覧会「nejiねじ―その用と美」開催を記念して、ねじをテーマにしたセミナーがおこなわれ、講師の一人であった曹洞宗東善寺住職・村上泰賢氏の「幕末、小栗上野介がアメリカより持ち帰ったねじについて」の発表内容(抜粋)をまとめた本紙掲載(15年8月27日付け、第1905号)を以下に紹介する。
小栗上野介忠順は日本の近代化へのレールを敷いた偉人である。しかし明治維新の動乱の渦中、父子主従8人が西軍に無実の罪で斬首されてしまった。この理不尽な行為を表沙汰に出来ないため、明治から今日に至るまで、小栗公の功績は教科書にも載らず、あまり世に知られていない。
殉難の地・群馬県倉渕町では東善寺の村上住職が中心となって墓前祭、史料展などの顕彰を続けており、今年正月NHKのテレビドラマなどでとりあげられ、ようやく日の目をみることになった。(小栗上野介顕彰会では、機関紙「たつなみ」を年1回発行しており、たつなみ会会員を募集している。年会費1300円。申し込み先は〒370-3401群馬県高崎市倉渕町権田169東善寺。(電話・ファックス027-378-2230)。
小栗公は文政10年(1827年)譜代旗本の家に生まれ、万延元年、遣米使節目付として軍艦ポウハタン号でサンフランシスコへ渡り、パナマから汽車で大西洋側へ出て、ロアノウク号でワシントンへ。帰路はナイヤガラ号でアフリカ経由…とほぼ世界一周の旅であった(この史実も、僚艦咸臨丸のみが強調され、正しく伝わっていない)。
帰国して外国奉行や軍の奉行等を歴任。米国での見聞を基に横須賀造船所建設、日本初の株式会社設立、郵便制度や鉄道の提唱等々日本近代化の方策を実行に移した。幕府の崩壊後は領地の上州権田村(現倉渕町)へ移り住んで若者の教育を目指していたが、慶應4年、冒頭に記した通り西軍の手にかかった。
日本の近代化は明治に始まったのではなく、幕末には既に芽をふいていた。小栗公の活動範囲はきわめて広いが、その中でねじに関係するものとして横須賀造船所(現在は米軍基地になっている)が挙げられる。ワシントン近郊で見た海軍の造船所を参考に、フランスの支援を得て着工した。造船所という名称であるが、ここでは製鉄から部品等の加工はもとより大砲、砲弾、銃、帆船用ロープまで船に必要なものはすべて自前でつくっており、日本の工業生産の原点である。
ワシントンで鉄を切る・延ばす・曲げる作業をわずか数人で蒸気機械等を使って効率よく行う様を見て「日本の近代化の道筋はこれだ」とイメージしたのであろう。ちなみに、慶應元年(1865年)に製造され翌年導入したオランダ製の3トンスチームハンマーは、平成9年まで実稼動し極太径ボルトの成形などに使われていた。日本の重工業の源泉である。
この造船所は明治政府に引き継がれてリーディングインダストリーの座を追うことになるが、その中で目立たぬながらも重要な締結部品としてボルト、ねじの生産も行われていた。小ねじがフランス語の「ビス」と呼ばれるのは、造船所がフランスの援助で建設されたことの名残りである。
東善寺に保管されている遺品の中には、アメリカから持ち帰った望遠鏡、手回しドリル、ピストルなどがある。そして、すりわり付き小ねじも。ワシントンの造船所ではおそらくボルト、ねじ、鋲も見てその1本を持ち帰ったのであろう。ろくろでねじを切ったと思われるこの小ねじは門外不出だが、ねじ展覧会の会場には、火縄銃に使われたねじの写真と並んで、1860年代のアメリカ製ねじがパネル展示されていた。
あとがき
幕府崩壊、志半ばで理不尽な死を遂げた小栗公ではあったが、日本の近代化に練り上げた多岐にわたる膨大な構想は明治政府へと受け継がれ実現している(東善寺発行「幕末開明の人 小栗上野介」より)。
その構想は、
(1)滝野川火薬製造所および反射炉の建設
(2)小石川大砲製造所の建設
(3)湯島鋳造所の改造
(4)歩兵・騎兵・砲兵三兵の編成と陸軍教育の充実、軍馬としてアラビア馬の輸入
(5)日本最初の株式会社「兵庫商社」の設立、中央銀行の設立計画
(6)諸色会所(商工会議所の前身)の設立
(7)外国語専門学校(フランス語学校)の設立
(8)新聞発行計画
(9)書伝箱(郵便)・電信事業の建議
(10)ガス灯設置と建議
なお、東善寺発行書は小栗公の一生を簡潔に纏めており、同氏に関連する多数の出版本とともに境内で販売されている。また、関連のホームページでは『東禅寺 http://tozenzi.cside.com/』『ようこそ倉渕町へ http://www5.wind.ne.jp/cgv/』がある。
記事インデックス
▽【第1回】小栗上野介忠順 幕末、米国から持ち帰ったねじ 2008年8月22日(金)▽【第2回】重工業源泉のオランダ製スチームハンマー 2008年11月17日(月)