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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」120 -日本産業革命の地・横須賀造船所

小栗上野介と渋沢栄一 1 ―1万円札の顔になれたのは-
 
 7月に新札が発行され、一万円札に渋沢栄一が登場したことから、小栗忠順とのつながりについて質問されることが多くなった。

 実は2019平成31年2月に深谷市・渋沢記念館の講演会で小栗上野介を講演した数ヶ月後に、財務省から新しい1万円札に渋沢栄一を採用、と発表があった。すると深谷の講演会で世話をしてくれた歴史家S氏から電話が入り、「あの時小栗さんにはね突けられていたら、渋沢の1万円札はなかったでしょうねえ…」と笑っていた。あの時とはいつ、小栗と渋沢の間に何があったというのか―。

 1866慶応二年暮れ、第二回パリ万博(1867慶応三年4月~10月)へ日本代表として出かける徳川昭武公(将軍慶喜の弟・14歳)が出発間近で滞在する横浜へ、勘定奉行小栗忠順は万博の出品責任者として挨拶をするため出向いた。昭武公はパリで公式行事が済むとそのまま5年間留学することになっていた。

 昭武公への挨拶が済んだ小栗(40歳)の前に、渋沢栄一(27歳)が現れた。「自分は昭武公に随行して会計と俗事係(マネージャー)を担当します。昭武公が5年間留学中の経費についてはくれぐれもご高配くださるようお願いします」と挨拶をした。

小栗「いや鄭重のご挨拶で痛み入る。しかしお前さんは五年も後のことを心配する柄でもあるまい。お前さんは討幕を企てた程の男ではないか、そんなことを心配するのはおかしい」

 渋沢はびっくり。じつは渋沢は水戸学の過激な尊王攘夷思想にかぶれ、実際に仲間と武器を買い集めて赤城山で挙兵、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜に押し上げて外国人を斬り殺して横浜から追い出し、幕府を倒す計画を立てていた。実行寸前に京都から戻ったいとこ渋沢長七郎の必死の説得を受けて取止めた。しかし武器を集めた件から露見することを恐れ、故郷血洗島村を出て散りぢりになり、渋沢は運よく慶喜の家臣に拾われていた。決行していたら無謀なテロリストのまま無名で終っていただろう。その前歴を小栗が知っていたのだ。

本紙2662号(2024年9月27日付)掲載





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