村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」118 -日本産業革命の地・横須賀造船所
辰巳一(はじめ)・造船大監
日本人が独りでツーロンに赴き、軍艦製造の現場監督として仏人技術者や労働者と細部を確認し、指導監督することは並大抵な努力では叶わない。そこには個人の資質が絡んでくる。辰巳は柔軟な思考の持ち主であり、楽天的な性格で「艱難辛苦する場面を厳然とした気迫と明るい笑顔で乗り越える」資質があった。2隻の軍艦がほぼ完成に近づいた1890明治23年3月、辰巳はフランスからその功を賞して「レジオン・ド・ヌール」勲章を授与され、翌年艦の完成を見届けて帰国することになった。
余談になるが、辰巳は帰国に際しフランスの火薬製造工場を見学した。手の爪を長く延ばしておいて出かけ、火薬の中に手を入れて爪に多くの火薬をつけてすぐに手袋をはめ、フランス極秘の火薬を持ち帰ると、兵器製造所の火薬研究者下瀬雅(まさ)允(ちか)に送った。下瀬はフランスで開発されたピクリン酸炸薬を分析し、さらに爆発力の強い純粋ピクリン酸を用いる方式をもちいて、後に下瀬火薬と呼ばれる日露戦争当時の世界で最大の爆発力を持つ炸薬を作り出した。
後の日本海海戦においてロシア艦が甲鉄を貫通して爆発する徹甲榴弾を用いたのに対し、日本の軍艦は下瀬火薬を詰めた砲弾に僅かな接触でも爆発を引き起こす伊集院信管を取り付けた砲弾を装備した。ピクリン酸は金属に触れると激しく反応し、炸裂した砲弾のかけらはすさまじい勢いで飛散して、3千度もの高熱ガスを発生させる。階段の鉄の手すりが屈曲し、据えられた大砲が根元から曲がる高熱で兵員を傷つけ倒し、たちまち反撃能力を奪っていった。
1892明治25年、松島、厳島の2艦が完成したのを見届け帰国した辰巳は、すぐに神戸小野浜造船所長を命ぜられ、水雷艇10余隻を急いで建造した。この水雷艇群が清国海軍北洋艦隊の閉じこもる威海衛湾の湾口を突破侵入したので、北洋艦隊提督丁汝昌は降伏し日清戦争は終結となった。この後、辰巳は先端技術者として造船大監に任ぜられ、数々の功績を上げて造船界に貢献した。
本紙2656号(2024年7月27日付)掲載
バックナンバー
- 村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」118 -日本産業革命の地・横須賀造船所 2024.08.27 火曜日