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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」111 -日本産業革命の地・横須賀造船所

職場内学校「黌舎」

 はじめは「技術伝習学校」 1866慶應二年になるといくつかの工場建屋が完成し、据え付けられた蒸気機関と機械による生産活動が始まった。
フランス最高の理工大学「エコール・ポリ・テクニック」で学んだヴェルニーは幕府と協議し、捋来自分たち仏人は解雇され、日本人の手で造船事業が継続されることを考え製鉄所内に人材育成の学校設立を提案。機械を正確に運転操作する技師・職工を育てる職場内教育機関「技術伝習学校」を1867慶応三年五月に設置した。

 午前は工場で職工として働きながら技術を習得、午後は学校で技術修得に必要な学科を学ぶシステムで、授業料無料、労働に対しては賃金が支払われる。
日本最初の職場内学校はフランス語で始まる。一帯の農漁村に生徒募集のお触れを回して生徒募集が行われたが、初めはフランス語で授業と聞いて尻込みしたのか、募集を締め切ったら応募者はたった9人しかいなかった。
 「父ちゃん、オレその学校に入りてエ」「バカヤロー、てめえにフランス語がわかるか!魚とってりゃいいんだ」というやりとりがあったと想像される。
やむなく横浜の仏語学伝習所の士族生徒からの技術伝習生4名と、応募した生徒9名でスタートした。職工の就業時間は十時間、技術向上の顕著な者は賃銀が増額された。技能給制度の始まりである。

 明治維新で幕府解散となり、明治新政府は経費難から技術伝習学校を廃止してしまった。横浜の仏語学伝習所を卒業した通訳官中島才吉は技術の伝承が途切れることに危機感を抱いて新政府に再開存続を強く要望した結果、明治三年に「黌舎」と改称して再開、「黌舎」と「職人黌舎」二つの課程に分れた。
「黌舎」はいまの大学理工学部に相当する内容で、全国から人材を募集、国内最高水準の工業学校となってゆく。「職人黌舎」は横須賀近在の村から人材を求め、技術職として技手補などの職工を養成した。

本紙2635号(2023年12月27日付)掲載





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