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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」105 -日本産業革命の地・横須賀造船所―

 不毛の尊皇攘夷運動 (つづき)

 相手を尊皇攘夷の主張に反する人物と決めつけ殺害する、独りよがりのテロ行為に走った若者が、明治以後は「勤皇の志士」と称賛され、著者が子供の頃に見た映画「鞍馬天狗」「快傑黒頭巾」「月形半平太」では戦後も勤皇の志士はヒーローだった。逆に尊皇攘夷に反するとして殺された人物はそのまま「殺されて当然」「逆賊」の扱いで、歴史の表から消されたままとなっている。
 たとえば埼玉県出身で盲目の大学者塙(はなわ)保己一(ほきいち)の息子次郎忠(ただ)宝(とみ)は、のちに初代総理大臣となった伊藤博文の若い頃のテロ行為で殺害され、消されたままである。塙次郎が寛永以前の外国人待遇の式典を調べていたのを「天皇の廃帝の歴史を調べている。これは孝明天皇を廃帝にするためだ」という誤解に基づく噂を信じた伊藤は、仲間の山尾庸三と1862文久二年十二月二十二日に帰宅途中の忠宝を九段坂で暗殺した。決行の数日前、二人は「国学入門」と称して忠宝を訪ね、面談して顔を確かめた上での念入りな確信犯の犯行だった。なぜ面談のとき「噂はほんとうか」と質問しなかったのだろう。

 しかもその10日前、十二月十二日には、伊藤・山尾は高杉晋作・井上馨・久坂玄瑞・品川弥二郎らとともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館に侵入、放火焼失させていた。はじめイギリスは品川の東禅寺を公使館としていたが、攘夷派に二度も襲撃されてヒュースケンなどの死傷者を出していたので、幕府が新たに公使館を建てて完成間際の建物だった。こちらは攘夷論に基づくテロ。「尊皇攘夷」をふりかざせば「何をしても自分たちは正しい」という傲慢な意識を育て、それが明治維新以降の官軍意識につながったのであろう。

 その半年後の1863文久三年五月に密出国で英国に留学した長州藩士5名を、日本の近代化に貢献した「長州ファイブ」として、教科書や副読本で近年異常に持ち上げる風潮があるが(本紙昨年6月27日号拙稿参照)、その中に放火と殺人を犯した伊藤博文と山尾庸三、放火を犯した井上馨と3人も入っている。

本紙2617号(2023年6月27日付)掲載





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