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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」78 -日本産業革命の地・横須賀造船所―

中小坂鉄山(つづき)


 「…さいわい領主(小幡藩主松平摂津守忠恕)も鎔鉱炉の建設、鉄山開拓を行いたい意向はあるやに聴いておりますが、鉱山の開拓は大変な手間がかかるもので小さな藩へ一任してしまって、その藩だけのわずかな必要分を目的とした高炉では算出する鉄の量も少なくなってしまう。そういった方法ではなくすべて政府(幕府)の力で高炉を建設し経営していけば、ゆくゆくは産出量も多く潤沢になるはずでして、合わせて製鉄所や反射炉の生業も功を奏し追々国の利益となる…」と見込まれるので、「御英断をもって鎔鉱炉を建設する許可を下さるよう…」(『陸軍歴史』・意訳)と幕府で積極的に取り組む意欲を示す進言書を提出した。

 そして「武田斐三郎らが派遣され、持ち帰った中小坂金久保山の鉄鉱石を関口鉄砲製造所で分析試験をさせたところ、有害物資の含有もなく、我国にとってかつてない良質な磁鉄鉱…」(『陸軍歴史』・意訳)との結果を得て、本格的な採掘の手配を開始した。中小坂の鎔鉱炉建設の計画では鉄鉱石を木炭燃料で溶解するとして「上州でもよりの石炭を産出する場所もありますが(当時一般に石炭を用いることはなかったから)きちんとした試験掘りをして利用の可否を確定していないので、とりあえず燃料を木炭とし、上州甘楽郡西牧の御用林で焼いた木炭で賄う予定…」(『陸軍歴史』・意訳)で計画を進めた。

 しかしこの開発計画は国内情勢の変転から資材の調達にも手間取り、明治維新-幕府解散によって中断、明治政府に引き継がれると民間の手で山麓に鎔鉱炉が建設され、本格的な操業が行われた。スウェーデン人技師の技術指導で、わが国最初の蒸気機関での熱風送風による木炭高炉の操業、として唯一最大の製鉄所であったが採算が取れず、経営者交代を繰り返し閉山となった。

本紙2539号(2021年3月27日付)掲載





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