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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」72-日本産業革命の地・横須賀造船所―

滝野川大砲製造所(1) 
  
 1864元治元年五月八日、陸軍奉行小栗忠順に大小砲鋳造の事務取扱が命じられた。3年前の1861文久元年七月、江川英敏の提議で「鉄型棒鋳造法」が採用され、関口錐入れ場で始まったがこれもすでに旧式になって、湯島鋳立場、関口錐入れ場が人手の割に生産がはかどらないことを打開したいと、小栗の手腕を期待したもの。湯島と関口の作業場を視察した小栗は、五日後に次のような建議書を差し出した。

 ・湯島は江川英敏の没(1862文久二)後、江川家を継いだ弟で英武(10歳)の手代が経営してきたがかなりの人手、経費がかかっている。
 ・もともと請負で仕上げるところ、完成品の質が悪くも「姑息の情」で寛大に見逃し、とくにたたら法で熔解して材質の分析試験もなされないまま不純物も交じっていて、多数の発射に耐えきれないものが出来ている。
・反射炉の予定地に計画されている関口は、湿地で適地とは言えないのでいずれ別の場所とする。
・湯島はすべて廃止し、残りの仕事も関口に統合し人員整理も行う。
・新規の場所に反射炉を設け、錐入れ場も完成したら、これまで受けた分量を製作したのち関口での大砲製作は廃止し、小銃製造所にすればいい小銃が出来ると思われる。

 以上を骨子とした「御仕法替え」の改革案を建議した。1853嘉永六年以来それまでに、湯島では大小合わせて175門以上の青銅砲が鋳造され、品川台場にも据えられたといわれるが、これで関口へ全面移転となる。
蒸気機関を原動力としてたちまち大砲をくりぬいていたワシントン海軍造船所の作業を見てきた小栗にとって、依然として水力に頼らざるを得ない日本の現実に、じれったい思いの改良策であったろう。

本紙2521号(2020年9月27日付)掲載





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