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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」67-日本産業革命の地・横須賀造船所―

 大砲製造・湯島から関口錐入れ場へ(つづき)
 
 いまお台場を見るとあんな所で江戸湾全体を守れるのかと疑問に思うが、じつは江戸湾は全体に遠浅で、黒船のように大きな船はどこからでも江戸湾の奥へ入り込めるわけではない。江戸湾西側は海底が谷状に深く、それに沿った深い海中水路で大きな船も通行できるから、江川はその海中水路に沿って砲台を据える品川台場を築造している。

 同時に幕府は湯島桜馬場(湯島聖堂の西・現東京医科歯科大学構内)に大砲製造場を設置し、台場に備える大砲の鋳造をまとめて行うようになった。1855安政二年には小銃製造も行なう「湯島大小砲鋳立場」として、製作に当った。
当時の大砲は青銅鋳物製で、初めから筒型に作った鋳型に溶かした青銅を流しこみ、冷えたところで心鉄を抜いて仕上げる鋳立て方式だった。しかし、この方式は外側と内部空隙から冷えるため砲身に間隙(気泡)ができ、発射の衝撃で破損してしまうことも多かった。致命的な欠陥といえる。

 そこで西洋の製法にならい、はじめ型に熔解銅を注いで棒状に鋳立て、その芯をくりぬいて筒状に仕上げる方式(錐(きり)入れ)が提言され、砲身をくりぬく動力として水車の力が必要となった。ワシントン海軍造船所で蒸気機関を動力源として易々と作業を進める様子を見てきている小栗ら遣米使節の帰国メンバーにとって、まだ水車かと歯痒い思いであったろうが、いっぺんに近代工場を作ることは出来ない。1861文久元年七月だから、ちょうど幕府は対馬に侵航して居座るロシア艦ポサドニク(対馬事件という)に手こずっていた時で、日本近海の情勢は切迫している。とりあえず従来の水車に頼るしかない。
大きな水車を回すに充分な水量と落差が得られ、湯島との舟運も通じた地として上流の関口水道町(文京区江戸川橋付近)が選ばれた。当時の大がかりな物資の輸送はもっぱら船に頼っていたから、江戸を始めとした都市は運河が発達し、工場移転もまず舟運の便が優先された。舟がいまのトラック替りだった。

本紙2506号(2020年4月27日付)掲載





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