村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」34-火縄銃の尾栓ネジー
火縄銃を旗本が鍛えた銘「小栗又一忠高造」発見
小栗又一は旗本小栗家が先祖の勇猛をたたえて家康公からもらったなとして代々受け継いでいる。このほど東善寺所蔵の小栗家家紋入り銃身裏側に「小栗又一忠高造」と、小栗上野介の父の名が刻まれているのを、銃の手入れを斡旋してくれた日本銃砲史学会峯田元治氏が発見した。
忠高は旗本中川家から小栗家へ婿養子に入り、幕府持筒頭のあと新潟奉行として赴任中に47歳で病没した人物。「鉄砲鍛冶の銘が刻まれているのは普通だが、旗本が自ら造ったという銘は珍しい」と峯田氏はいう。
竹の目釘を外した銃身には尾栓ネジがはめられ、修理によってサビが落とされたので簡単に回して外せた。ご存知のようにネジは種子島に伝わったオランダ人の鉄砲によって日本に入り、以後職人の手によるヤスリがけで作られたと言われている。そのネジを実際に見るのは初めてであった。雄ネジの末端には銃身を掃除するとき棒を差し込んで回す穴が開いていた。
では、雌ネジはどうやって造ったか。タップがない時代だから熱間鍛造法で造ったと峯田氏はいう。銃尾を雄ネジが入る径に広げ、雄ネジをはめ込むと熱して上から叩いて雄ネジに沿ってめり込ませる。この製造法に異論があったので、峯田氏は火縄銃の銃身を実際にタテに切断して雌ネジの断面を顕微鏡で調べたところ、分子構造がネジ山に沿って並んでいた。切削では分子構造は動かないから、明らかに熱間鍛造法によると確認できたとのこと。
緻密に現場を踏まえて政策を提議・実行していたリアリスト小栗忠順の性格は、父親譲りのものと推測できる発見であった。
本紙2407号(2017年7月27日付)掲載
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