村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」57-日本産業革命の地・横須賀造船所―
幕府の運命、日本の運命
家にたとえれば母屋(日本の政権)は間もなく売りに出される。これまでの家主(幕府)のやり方では時代に合わない。「幕府の預かっている政権(母屋)はいずれ新しい家主が入る。門や塀がつけばいい売家だ、この際土蔵(横須賀造船所)付きの売家にしてやろう」、幕府は終わっても日本は残る。「土蔵付き売り据え」とは国の将来のためにいま残すべきものを造っておく、という気概を込めた言葉だが、同時に正面からの大仰なもの言いを避けた江戸っ子の洒落、とも言える。
こうした経過があってフランスに技術支援を依頼することに決め、フランス語の達者な栗本がロッシュ公使に幕府の造船所建設希望と技術指導依頼の話を伝えることとなった。
この頃、佐賀藩は西からの日本の表玄関である長崎警備を永く担当したことから、西洋諸国の先進情報を得て、藩主鍋島直正は日本が近代化を急がなければならないことを痛感し、1850嘉永三年には日本最初の洋式反射炉を完成させ、鉄の大砲の鋳造に成功するなど藩として様々な近代化事業に着手していた。
その佐賀藩から、オランダ製の製鉄・造船機械一式が幕府に献納されていた。もともと佐賀藩で買い込んで実用化しようとしたが、たいへんな経費と専門家が必要とわかって幕府に委ねたもの。
幕府はこれを長浦湾(横須賀市長浦)に据えて活用したいと考えたが、技術者がいないためそのままになっていた。これを活かして何とか造船所を造れないか、という腹案が勘定奉行の小栗にあった。
忠順は栗本を伴ってフランス公使館にロッシュを訪ねて相談する。ロッシュも造船所建設は自分で判断できないのでフランス海軍提督ジョーレスを招いて意見を聞くと、蒸気士官ジンソライが間もなく上海から日本へ戻るからその機械を検分させようということになった。
本紙2476号(2019年6月27日付)掲載
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