村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」53-日本産業革命の地・横須賀造船所―
フランスの技術援助(つづき)
イギリスは全世界を植民地にしかねない勢いでアジアに進出して、イギリス商人の手口は警戒すべきところがある。遣米使節の帰途香港で見た、日本人を見ようと群がる中国人をイギリス人警官がいきなり棍棒でぶちのめす姿は不快なものだった。対馬事件は、もともとは英国が対馬島の租借を要求して幕府に拒否されたことにロシアが刺激され、早いうちに既得権を得ようとしたことから起きている。こういう経過からイギリスは油断ならない国として、退けられた。
フランスはどうか、1858安政五年七、八月に日米、日蘭、日露、日英の修好通商条約を結んだのにフランスは少し遅れ、十月になって初代公使ベルクールの努力で日仏修好通商条約を締結した。
ベルクールの次の公使レオン・ロッシュは、1864元治元年四月に着任するとメルメ・カションを通訳として雇っていた。もともとカションは日本でベルクール公使の通訳をしていたが、公使との折り合いが悪く、元のカトリック宣教師となって箱館に滞在していた。
箱館奉行津田正路の指示で奉行所役人の栗本鋤雲は日本語をカションに教え、ついでにカションからフランス語を教えてもらう交換教授で、親密な関係となっていた。栗本鋤雲が江戸へ戻ってしばらくして、カションはロッシュの通訳となり、ロッシュの着任後開かれた横浜鎖港の談判の席で、二人は偶然再会した。この二人の親密な関係が、その後の日仏関係に大きな影響を与えることになる。
翔鶴丸の修理
ここに技術支援をフランスにゆだねる契機となったエピソードがある。
幕府はアメリカから蒸気船翔(しょう)鶴丸(かくまる)を買い、将軍家茂の二度目の上洛に使ったりしていたが機関の修理が必要になり、1864元治元年十一月若年寄の酒井飛騨守忠毗(ただます)は横浜滞泊中のフランス軍艦ケリエール号に修理を頼むことを、横浜に在任中の監察栗本鋤雲に命じる。 (つづく)
本紙2464号(2019年2月27日付)掲載
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