村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」50-日本産業革命の地・横須賀造船所―
以上二つが日本海海戦においてどれほど役立ったことか、という東郷の感謝につながった。小栗が「いずれ土蔵つき売り家になってあとの役に立つ」と笑ったその土蔵がたしかに国を救ったのだ。
本紙での連載はじめに書いたように、横須賀造船所建設を発想した契機となったのが、ワシントン海軍造船所の見学であった。
見学を終えた小栗忠順ら遣米使節一行が痛感したのは、現代風に言えば、「近代化」という国際レースはとっくに始まっていたということ。一番の特徴は一斉スタートではなく、仕度の出来たチームは走り出していい。アメリカはもう背中も見えないほど遠くを走っている、と痛感させられた。日本も走り出したいけれど、スタートラインにつく仕度が出来ていない。何から手を付けたら仕度ができるか―ワシントン海軍造船所の見学がそのヒントを与えてくれた。
そこは造船所と言ってもあらゆる鉄製品、つまり蒸気機関の石炭を焚く窯、窯の上で湯を沸かす釜、その蒸気や水を運ぶパイプ、蒸気を吹付けて回転運動に変えるタービン、回転を上下運動に変えるシャフト、パイプを繋ぐジョイント、ボルト、壁に止めるネジ釘、を作っていた。同じ鉄製品だから大炮、砲弾、ライフル銃、さらに厨房のナベ、カマ、スプーン、フォーク、からドアノブまで作っていた。
これらの動力源はすべて蒸気機関で、工場ごとに動いていて「鉄板を切るのに、さながら豆腐を切るごとし」と使節一行は目を見張った。
黒船といっても当時は木造船体だったから、造船所内の木工所ではアク抜きした大きな材木を板にひいて船体、船室、甲板、階段、床、壁を作っていた。
当時の蒸気船は正確にはまだ蒸気帆船で、ふだんは石炭を節約して帆走していたから製帆所で帆も作り、製綱所で帆を操作するロープも作っていた。
そして向こうへ行くと、それら部品を集めて「船も」造っていた。まさに造船所は何でも造る総合工場だった。
本紙2455号(2018年11月27日付)掲載
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