村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」49-日本産業革命の地・横須賀造船所―
日本海海戦勝利を東郷が感謝した横須賀造船所の意義を2つ挙げておく。
1、水雷艇・駆逐艦 日本海海戦で戦った軍艦90隻のうち三笠をはじめとする大きな戦艦4隻・装甲巡洋艦8隻など55隻がイギリス、ドイツ、アメリカ製であった。激浪を避けるため対馬三浦湾に待機させられていた中小の駆逐艦・水雷艇に、夕方になって出撃が命じられた。昼間の戦艦どうしの砲撃で傷つきながら逃れようとするロシア艦を追って、駆逐艦・水雷艇が猛スピードで間近に接近して攻撃し、的確に魚雷を放って沈め完全な勝利をもたらした。そのほとんどが、横須賀と呉で造られていた。
2、ドライドック 幕末にツルハシで掘りモッコで運んで作ったドライドックの存在が特に大きかった。ふだん水を抜いておくから「ドライドック」が正式名称。水を入れてゲートを開け、船が入ると水を抜いて船底まで修理する。終わると再び水を入れて船を浮かばせ、ゲートを開いて船を出し、ゲートを閉めて水を抜いておく。水の出し入れの動力は蒸気機関で行う。
造船とともに発達した艦船の修理技術が、バルチック艦隊を迎える前の連合艦隊艦船の完璧なオーバーホールを可能にし、最大限の艦船能力を引き出せた。対馬沖で猛訓練をしていた連合艦隊は、バルチック艦隊が希望峰を廻る頃いったん横須賀、呉、佐世保のドックで入念な補修点検を行って再び対馬沖に戻り、待機していた。
日本海海戦で敗れれば日本海はロシア海軍に制圧され、大陸に展開した陸軍は補給路を絶たれ、日本は首元を押さえられて北欧諸国のように属国とされていたことであろう。連合艦隊といえば一見勇ましいが、敗れたら次の連合艦隊はない。東郷の言葉”皇国の興廃此の一戦にあり”は文字通りこの時の日本の状況を表していた。勝海舟が江戸を救ったという(山岡鉄舟の下工作が無視されている)が、小栗上野介が日本を救っていた歴史はほとんど知られていない。
本紙2452号(2018年10月27日付)掲載
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- 村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」49-日本産業革命の地・横須賀造船所― 2018.11.27 火曜日