村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」43-日本初の株式会社―
ところでこのホテルは、玄関がはっきりしないという不思議な構造になっている。平面図で見ると、建物全体の構成が海岸側に開いたベランダの部屋はすべて海岸側を表とした構造であるにもかかわらず、その海岸側は築山と芝生の庭園が配されその先は土塁と石垣で海に面していて、正門はホテル裏口にあたる陸側に開いている。
どうしてこういう不思議な構造なのか、これは海からあがって入ってくることを想定したブリジェンスの設計であったものが、慶應三年に外国人居留規則が改正されて海からの上陸は着船指定場所以外が制限されるようになり、ホテルに海から直接入れなくなったためではないか
(桐敷真次郎「明治の建築」日経新書)
という説を紹介した長谷川尭氏はさらに次のように推測する。
ところが何かの事情で、海からの導入が不可能になり、陸の西北側から荘重な長屋門(後に洋風のアーチ門にかわったらしい)をくぐって入る、という形に落ちついた。このような変更が行われたころ、つまり工事が始められてまもなく、徳川幕府の「大政奉還」が行われ、世情は騒然としてきており、多分私の推測では、設計監理を引受けていたブリジェンスが、身の危険を感じたためか、工事監理から手を引いてしまったのではないだろうか。とすれば残された喜助は、陸からのアプローチという大きな変更を背負いながらもブリジェンスに設計変更を依頼することも出来ず、やむを得ず海に正面を向けた全体的な構成のままで、とにかくホテル館の建築工事を完了したとも考えられるわけである。(長谷川尭「日本ホテル館物語」プレジデント社)
本紙2434号(2018年4月27日付)掲載
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- 村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」43-日本初の株式会社― 2018.05.27 日曜日