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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」42 -日本初の株式会社―

 株式会社・築地ホテル(10)―水洗トイレつき―

 
 出来あがった建物は七月十七日に「東京」と改称された江戸で建築途中から評判となり、江戸っ子はもちろんお上りさんも連日押しかけるので、喜助は人を雇って門番を置き、二朱の木戸銭で見物させるまでになった。さながら当時のディズニーシーといったところ。

 明治新政府は外国からの干渉を恐れ、それまで唱えていた攘夷など倒幕ができればもうどこ吹く風、幕府が各国と締結した条約を遵守する和親の方策を表明する。明治維新政府は近代史上最大の公約違反でスタートした。

 それを受けて慶應四年閏四月清水喜助は新政府からホテルと貸倉庫四棟を抵当に建設途中のホテルの資金として、二万両を借入れることに成功している。
一昨辰年築地外国人旅館並ニ貸庫四棟引当ニ泰助・喜助金弐万両御貸付相成候       (「東京市史稿」市街篇)

 ホテルの位置はもと「講武所」、文久元年の江戸地図では「御軍艦操練所」とある場所で(勝鬨橋手前の右たもと、現在は7階立体建駐車場)。敷地面積7,000坪に、建物は三階建の本館(一部が四階・塔屋付)と平屋からなり、延べ1619.7坪(約5354.4㎡)、間口40.4間(約73.6m)、奥行34間(約61.8m)、木造で中央に三層の展望塔(高さ18m)があり、部屋数102室、水洗トイレ、シャワー、バー、ビリヤード室を備えたもので、総工費三万両を見こんでいた。横浜のイギリス公使館と同じく二階までナマコ壁を用い、和洋折衷を強調した斬新なデザインの本格的なホテルは、海を見渡す展望が評判で食事もおいしいと外国人にも評判がよく、東京名所となって連日大勢の見物客が黒山のように押しかけ、百種類以上もの錦絵が飛ぶように売れる名所となった。幕末維新の動乱の中でよく完成に持ちこんだ、と感心させられる。

本紙2431号(2018年3月27日付)掲載





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