村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」40 -日本初の株式会社―
株式会社・築地ホテル(9)―「山師の玄関」―
さて肝心の建築資金は集まったか。慶応三、四年という幕末の世情不安な情況がかえって現金を持っているよりは有利な利殖法と受け止められ、小金を貯めた商人さらには与力までもが、出資者となった。とくに大きな資金を集めたのが信州上田出身の生糸商人吉池泰助。吉池は生糸貿易で横浜に出入りして清水喜助と知り合ったらしく、築地ホテルの建設に自己資金を投じたほか賛同者を募って株仲間を結成している。
さて、慶應三年八月に始まった工事は、工期十二月六日(1867年12月31日)までにはとても完成するはずもない。その年の暮になると、材料や職人の支払いを求めておおぜいの仕事師や職人、材料屋が押しかけた。弥十郎は初めからあてにしていなかったが、ほかの者はそんな話では通らないから借金取りが百人くらい押しかけ、夜中まで帰らない。
其頃本人清水はホテル外へ立派成る家を建て、加入者扱所とす。俗にいふ山師の玄関なり。しかるに此年十二月晦日に至り、…外々の諸職人等ハ大に差支へ、一同本人清水等に催促して、扱所へ百人計りも詰かけ夜半迄も居、さいそくに及ふに、本人代柳屋伊右衛門出て諸方に其言訳してなだむる。此時我は一首の狂歌を紙に書き、扱所まん中へ張出したり。
○いつきてもうそをつきじの扱所あす払ふとはうまく伊右衛門
とよみけるに催促人大によろこび一笑せり(『平野弥十郎幕末維新日記』)
喜助の代人柳屋伊右衛門があれこれ言訳するだけで、らちがあかない。弥十郎はあきれて「いつ来ても嘘をつきじ(築地)の扱所明日払うとはうまく言えもん(伊右衛門)」とざれ歌を書き加入者扱所の「山師の玄関」に貼りつけ、一同大笑いしてうっぷん晴らしするという、落語の長屋の騒動のような展開で年が明けて行く。日本初の株式会社によるホテル建設は、スタートから多難である。
本紙2425号(2018年1月27日付)掲載
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