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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」39 -日本初の株式会社―

 株式会社・築地ホテル(8)―石造建築―
 
小栗忠順が石造を主張したのは、次のような遣米使節の体験から防火の効果を考えてのことと思われる。

 ワシントン・ホワイトハウスでブキャナン大統領に面謁し国書を渡した数日後の朝、宿泊しているウィラードホテルの近くで火事が起きた。飛騨国金山から参加していた従者加藤素毛が日記「二夜語」にその様子を書いている。

 (萬延元年閏三月)三十日晴れ、十時頃ホテルの東南で火事が起きたが、市中は少しも騒ぐことがない。人々の往来も普段と変わらない。規則で火事の時は火消しとその手伝い人のほかは野次馬が行くことを禁じている。建物が石造だから類焼することはなく、火事が起きても一軒だけ焼けて終わる。しかし市内は大火を扱うこと(仕事?)が多いから、火事も多い。(意訳)

 関連して石造建築を考えると、幕府海軍の直轄となっていた浜御殿(いま浜離宮)に海軍庁舎と兵員屯所を兼ねた「海軍所」建造が計画された時、小栗が「海軍局石造然るべし」と主張(「勝海舟日記」)して慶応三年(1867)に石造で建設が開始された。出来上がって間もなく明治維新・幕府解散を迎えたので建物は新政府に移管されていた。維新後の明治二年に英国王子エディンバラ公来日の宿舎にふさわしいとして改装され、「延遼館」と名称を変え王子を迎えている。築地ホテルと併せて考えると、幕末の築地界隈に「築地ホテル」と「海軍所(のちに延遼館)」と、最新の洋式建物が二つ完成していたことになる。

 築地ホテルは民間業者の仕事ということで石造を指示していないが、海軍所建設は幕府直営だからアメリカでの見聞を生かし、火事の多い江戸で防火に強い石造を強く主張したのであろう。小栗忠順が国のため、人々のためになることをつねに考えて建議し、実行に移していたことがわかるエピソードと言えよう。


本紙2422号(2017年12月27日付)掲載





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