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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」37-日本初の株式会社―

株式会社・築地ホテル(6)―山師の企て― 

 ホテルの設計図面規模などの仕様はすべて幕府の指示による。清水組に属している柳屋伊右衛門はじめ五、六人の差配人がいる。喜助は以前から弥十郎と懇意で、着手の際弥十郎を呼ぶので面会したところ、喜助が言うには「今回の大事業だが、じつは自分にはこれほどの資金はない。だから地ならしから足場の取りたて、地形・石居から土台を据え回し、そのうちに方々から仲間になる組合員を募集して、その加入金を一株百両と決め一人何株でも加入するのは自由で、その上一株につき加入した人には一年に金百両ずつ毎年配当することを規約として、集金次第諸方にこれを支払い建築の成功を期したい。ついては弥十郎にもその仲間(組合)に入ってくれ」という。

 経費の調達方法は、株式会社の手法により一株百両で一人何株加入してもよいのはともかく、百両の出資に対して一年に百両の配当とは、ずいぶん気前のいい配当を見込んだもので、はたしてうまくやれるのかと首を傾げたくなる。

 喜助のやり方は、鹿島清兵衛から材木で千両、吉池泰助から千両、清水喜助は大工の手間賃を含めて五百両、合わせて二千五百両程で取りかかり、その他の資金はこれから加入者から募集するというやり方だから、弥十郎は「これは山師の企てだ」と評しながら、工事の土木を請負い、最終的に自らも二株加入している。

 とりあえず現物と手間賃も合わせて二千五百両の資金で建設に取りかかり、追々加入者を募って総工費三万両を集めようという計画は、当時としてはたしかに無謀な資金計画で「山師の企て」と見られただろうが、今日の資本主義社会では「年に百両の利息」を除けば、さほど無謀ともいえない株式会社の発想といえよう。




本紙2416号(2017年10月27日付)掲載





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