村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」36-日本初の株式会社―
当時アメリカの最新ホテルでは、室内電話の代わりに電信器が各部屋に置かれ、水洗トイレ、シャワー、蒸気暖房、地下室では蒸気機関による洗濯機が動き、なによりも日本では高価な舶来品のジュウタンが部屋も廊下も床一面に敷かれ、その上を靴で歩くのに日本人は目をみはった。
ホテルは自費で建設するから、経営はこちらにやらせてほしいという願書は、かなり小栗忠順から内々の示唆を受けて申し出ていることをうかがわせる。日本最初の株式会社の手法がホテルの形で根付こうとしている場面である。
初めから忙しい話で、話があったのが七月、建設期限が慶應三年十二月七日(1867年1月1日)、その前日六日までおよそ五ヶ月で仕上げるということだったから喜助の願い出は即日受理の形で処理され、どんどん仕事が進められた。小栗上野介の提議はいつも現場を抑え、下調べや根回しが済んでいる事が多い。今回も喜助は内々にかなり下準備を進めていたことだろう。
設計図を書いたアメリカ人設計士ブリジェンス(フリッセンとも)には、彼の要求通り工事中の監理も含めて給料千ドルを、五ヶ月で割って月200ドルづつ支払う。ホテルで使用する家具器具等のアメリカへの発注は喜助が直接ブリジェンスと相談して行うようにと決められた。
このブリジェンスは幕末に来日し、建築事務所を横浜に開いて活躍、明治初年にかけて瓦屋根やナマコ壁を用いた和洋折衷のデザインで、英国仮公使館や築地ホテル館のほか横浜税関や、横浜町会所などの建築設計をした。明治五年に鉄道が開始された新橋駅と横浜駅は、彼の設計図1枚から両方の駅を造ったある種手抜きともいえる建造物で、写真ではいつも見分けるのに苦労する。新橋駅はいま汐留に復元されて、当時の面影をしのぶことが出来る。
本紙2413号(2017年9月27日付)掲載
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