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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」35-日本初の株式会社―

株式会社・築地ホテル(4)―ホテルの概念を示す―

  清水屋は横浜に進出

 『清水建設一五〇年史』によると清水建設二代目の喜助は、富山県井波町から出た本名藤沢清七。初代喜助が富山から江戸に出て成功し開いた「清水屋」で働いていて婿入りし、安政六(1859)年五月、初代喜助の急死にともなって二代目を継いだ。幕府がこの年横浜村に港を開くと、それまで江戸で丹後宮津藩本荘家、彦根藩井伊家、肥前藩鍋島家などの御用達棟梁となっていた清水屋は、その信用と人脈をもって攘夷運動の激しい中で積極的に横浜に進出し、幕府御用工事として戸部村の外国奉行所、宮ケ崎御目付長屋および奉行所武器庫、石崎関門ならびに番所、野毛坂の陣屋前役宅、カットメハウス(カスタムハウス・税関)などを請負い、横浜にも店をおいて差配し完成させていた。

株式会社の経営手法

 小栗忠順が喜助に内々で示唆した構想は、民間資本を集めてホテル組合を作り、一株◯両で出資金を集めて建設する。出来上った後の運営で、運営費以上に利益が出たら株主に配当するという、まさにパナマで理解した鉄道会社の経営手法を取り入れたもの。

 ホテルの規模や内容についてすべて幕府で指示する通りにするという条件をつけたのも、従来の小規模な旅館のイメージを捨てさせるためであり、快適かつ公共的なロビー空間を備え、館内にいくつも売店があり、地下室では蒸気機関が洗濯機を回し、八千人近い人が集まって遣米使節の歓迎大舞踏会を開いたニューヨークのメトロポリタンホテルや、ワシントンのウィラードホテルなど、当時アメリカの超一流ホテルでの見聞・経験を踏まえたものであろう。




本紙2410号(2017年8月27日付)掲載





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