現在位置: HOME > コラム > 村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」 > 記事



村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」30-日本初の株式会社―

  小布施の”船会社”(7)―平和の恩義―


 先述の通り小栗は上州権田村へ退隠する前に訪ねてきた振武隊長渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄弟)が、彰義隊頭領として江戸に残ってともに戦うことを誘ったのに対し「将軍がもうすでに恭順せられている以上は戦うのに何の名義も立たない」と断り、いったん世が静まった後に、もし強藩が互いに勲功を争い内輪もめとなって群雄割拠するようなら、主君を奉じて天下に檄(げき)をとばす(立ち上がるよう号令をかける)つもりはある
と、語っている。さらに言葉を継いで次のようにいう。

 三百年にわたって施した徳川家の恩(おん)澤(たく)を、まだ忘れない者も多くいるであろうから、国内を再び統一することはさして難事ではない。もし又そのような事がなければ自分は前朝の頑(がん)民(みん)(前政府の頑固者で新政府には仕えない者)として、田舎で世を送るつもり……
(蜷川新『維新前後の政争と小栗上野介の死』)

 と述べている。

 ここにいう「徳川300年平和の恩澤を忘れない者」とは忠順は具体的に誰をイメージしていたか、筆者にとって長いこと課題であった。高井鴻山頌徳碑の「吾等三百年の驩虞(かんぐ)の沢(たく)(よろこび楽しむことのできた恩)を受く、宜しく資産を挙げて以て危急を救うべし」こそまさにそれに呼応した言葉であり、高井鴻山が間違いなくその一人として、忠順の脳裏にあったことを証明している。

 あの幕末動乱の時に、江戸・信州と離れていながら互いに心を通わせ、国民利福につながる国事に心を痛めていた二人がいたことを物語る石碑の存在は、筆者にとって衝撃的な発見であった。

本紙2395号(2017年3月27日付)掲載





バックナンバー

購読のご案内

取材依頼・プレスリリース

注目のニュース
最新の産業ニュース
写真ニュース

最新の写真30件を表示する