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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」28-日本初の株式会社―

  小布施の”船会社” (5)―幕府解散で挫折―

 大坂では忠順が提議した兵庫商社が具体的に動きはじめている。こうして小栗と意見の一致を見た鴻山は、この構想にかけて幕府の新しい国造りに参加することを夢見ていた。

 しかしながら時代の流れは、鴻山の構想を受け入れ夢を実現する前に急転してゆく。慶應四年(1868)一月、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れると、「明日は自分も出る」と全軍に再進撃の命令を発しながら夜ひそかに大坂城を脱出、「自分に考えがある」と会津藩主松平容保ら重臣とおまけに愛妾まで連れて、家臣を置き去りに江戸へ逃げ帰ってしまった。司令官の敵前逃亡である。

 前線から逃亡した慶喜は江戸城へ戻ると、ひたすら自分の延命を企図して一月十五日小栗を勘定奉行から免職、新しい人事で会計総裁に大久保一翁(忠寛)をあてた。大久保はすぐに、幕府の解散処理と資金づくりを考え鴻山に江戸出府を促して「大久保一翁様が会計総裁となられたので、逢いたいと仰せだから早々に江戸へ出てくるように…」という手紙を側近に出させる。

 しかし、鴻山は江戸へ出ず門人関谷与市を代りに江戸へ向ける。与市が向かった先は大久保邸ではなく小栗邸への見舞いであった。

 免ぜられた小栗は自分の役目はこれまで、として渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄弟)の彰義隊の頭領にとの誘いを断り、二月二十八日江戸を出て、家族ぐるみで知行地の上州権田村へ引き移る。その直前の二月十四日、与市は鴻山の知友両角(もろずみ)玄修(松代藩医)に従って小栗邸を訪ね、土産を渡し挨拶をした。
誠に小栗家が御役御免になって火の消えたようでございます。人の盛衰ははかり難きものでございます 
                               
…玄修は、幕府も小栗家も火の消えたような様子と鴻山に報告している。

本紙2386号(2017年1月27日付)掲載





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