村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」11-咸臨丸神話が隠した遣米使節―
「咸臨丸神話」の成り立ち(つづき)
・日本人初の太平洋横断は…俗にいう「勝海舟・咸臨丸が日本人初の太平洋横断をした」は誤り。遣米使節より250年前の慶長十五年(1610)に、徳川家康の命により田中勝助が太平洋を横断してメキシコへ渡り、翌慶長十六年(1611)に帰国している。三年後慶長十三(1613)に伊達政宗がサン・ファン・バウティスタ号で派遣したのが、「慶長遣欧使節」として知られる支倉常長である。
やはり太平洋を横断してメキシコへ渡り―スペインから―イタリア―ローマ法王に面謁し、ふたたび太平洋を渡って、七年後に帰国している。
・日本人だけで航海か…国定修身教科書は「日本人の力だけで航海」「少しも外国人の助けを受けず…」と愛国心をふるい立たせる勇ましい話だが、実際は海軍奉行木村喜毅が米海軍測量船フェニモアクーパー号の船長ブルック大尉他10名の水兵に同乗を依頼した。出航数日後にたちまち冬の低気圧の発達による大嵐に遭い、日本人はほとんど船酔いで動けず米兵の操船で乗り切ることができた。第5期(昭和16年~)改定の教科書でも「絶えずはげまし続ける安芳のことばに…」とあって、勇ましく太平洋に乗り出した勝が先頭に立って水夫を励まし「元気よく航海」して「立ち続け」、人々を「絶えずはげまし続ける」イメージになるが、じつは航海中の勝は船酔いのためほとんど船室にこもって寝たきり。サンフランシスコまでに甲板に上がってきたのは三回くらい。まったく艦長の職責を果たしていなかった(ブルック『咸臨丸日記』)。
福沢諭吉が「少しも他人の手を借らずに出かけてゆこうと決断」「決してアメリカ人に助けてもらうということはなかった」(『福翁自伝』)と誇張を書き、勝が「日本人が独りで軍艦に乗ってここへ来たのはこれが初めてと、アメリカの貴紳らもたいそうほめて…」(「氷川清話」)と語るのも誇張で、それに乗っかった修身教科書の記述は日本人の自尊心を満足させたが、同時に歴史認識を誤解させ遣米使節を隠す原因となった。
(つづく)
本紙2338号(2015年8月27日付)掲載
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