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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」10-咸臨丸神話が隠した遣米使節―

「咸臨丸神話」の成り立ち


 前号、修身教科書の「勉学」勝海舟はもともと根拠となる史実があっての話なら、これほどの変容はありあえないから、修身の「お話」として創作された作り話とみていいだろう。では次の課「勇気」咸臨丸はどうか。
咸臨丸の「神話」ともいうべき誇張されている虚構部分は

1、日本人初の太平洋横断 
2、日本人だけで航海した   である。

 修身教科書「勇気」の本文(あらすじ)を見てみよう。
「勝海舟は長崎でオランダ人から航海術を学んだ。間もなく、幕府は使をアメリカ合衆国へやることになった。使は合衆国の軍艦にのせ、別に日本の軍艦を一そうやるというウワサがあった。勝は自分の教えた部下を差図して日本人の力だけで航海をしたいと願い出ました。勝があくまで願ってやまないので幕府もその熱心と勇気に感じて、咸臨丸で勝等をやることに決めました。毎日のように南風で海が大そう荒れ、船体がひどくゆれねじ折られそうになったことが幾度もあった。しかし、勝等は少しも恐れず、元気よく航海をつづけサンフランシスコに着いた。アメリカ人は、日本人が少しも外国人の助けを受けず小さい軍艦で、よく太平洋を越えてきたとたいそう感心しました(傍線部は誇張や虚構)」
 
 このお話を史実で検証すると

・派遣は…「願い出ました」「願ってやまない」と勝海舟の提案で咸臨丸派遣が実現したように書いているが、実際は勝の申し出と関係なく、幕府は安政五年の日米通商条約締結時点で使節の乗る米艦に随行船の派遣を決定していた。

・勝海舟の参加は…咸臨丸の責任者・軍艦奉行木村喜毅はのちに「(勝を)咸臨丸の艦長にするのでも、(勝が)どうか行きたいということですから、お前さんが行ってくれればというので、私から計らった……」(『海舟座談』)と、勝の乗船は木村喜毅のあっせんで実現したことを回顧している。
  
(つづく)

本紙2335号(2015年7月27日付)掲載





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