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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」5-ワシントン海軍造船所―

アメリカ土産のネジ釘

 この時のワシントン海軍造船所見学でもらったと思われるアメリカ土産の真鍮製ネジ釘が1本、寺に残っている。かつてNHKTV『その時歴史が動いた』で小栗上野介の生涯とともに紹介されると、そんなネジがあったのか!と一躍ネジ業界に注目され、「うちはネジを作っています。見せてください」と関東はもとより名古屋・大坂からも、ネジ関係者がわざわざ見に来るようになった。

 松平アナが「帰国の船上で小栗の手にネジが1本握りしめられていた…」とドラマ調に語ったから、「これが、小栗上野介が握ってきたネジですか―」と感慨深そうに言う人までいる。あわてて「握りしめてきたのではありません、そんなことしたら錆びてしまいます」と説明する。
 
 じつは1本ではなく、たくさん入った箱ごともらい、帰国後、お土産として周囲に配ったといわれている。ネジ釘が珍しいからではない。ネジ釘じたいは天文十二年(1543)にポルトガル人が種子島に持ち込んだ鉄砲と一緒に入ってきている。それ以後は鉄砲鍛冶が1本ずつ手作りでヤスリをかけて作っていた。これでは工業ネジとはいえない「ネジみたいなもの」だろう。

 ワシントン海軍造船所では同じ規格の工業ネジを目の前でどんどん作っていた。日本もこういう物をどんどん作れる国にしたい、という思いで小栗忠順がお土産にしたうちの1本である。

 ところで、当時ネジ釘をもらってどうしたろう、使ったか、使わなかったか。答は「使えなかった」―どこの家にもドライバーがなかったから…。日本の家庭がドライバーをふつうに持つようになったのは昭和30年代からで、それ以前にドライバーを持っているのは自転車屋、時計屋、ラジオ屋くらい、一般家庭はドライバーなどなくても生活できる国だった。大工も持っていなくて、面倒、とばかりネジ釘を玄能で叩き込んでいるのを子供の頃に見た。今思うとネジ屋さんが泣きたくなる場面だろう。       

本紙2320号(2015年2月27日付)掲載





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