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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」1-小栗上野介―

 人の評価は棺のふたを覆って定まる、と言われるがその死後の期間もいろいろあって、特に政治がらみの人物評価は生前や歿後すぐではまだ時代の思想や風潮、政治が影響するから真の評価とはいえない。

  死後50年や100年でも、まだ前代の影響が残っていることが多いから評価が確定したとは言い切れない。明治以来もてはやされた人物が、敗戦後すっかりかえりみられなくなっている例は、いくらでも思い当たることだろう。

 これから紹介する小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)は、慶応四年(明治元年)に西軍によって殺され今年で146年経過した。殺したのが西軍(のちの明治政府軍)だから戦前は、殺されて当然、といった逆賊扱いをされていた。敗戦後の一時期は軍国主義者扱いされたこともあったが、近年ようやく彼の業績に目が向けられ、日本の近代工業にとって重要な仕事をしていたと、評価されるようになってきた。

 歿後140年経過して評価されるのだから、これは本物の評価になってゆくことだろうと、小栗上野介の墓守りをしてきた者として嬉しく、期待している。このたび本紙にスペースをいただいたので、小栗上野介を通しての日本産業革命の始まりを考えてゆこう。

 まず、「西軍」という言葉について「官軍」という人も多いが、基本的に私は官軍を使わない。日本語で「官」の反対語は「民」であるはずなのに、「官軍」になると反対語がどうしたことか「賊軍」となってしまう。「民軍」にならない。

 反対語が「何をしても正しくない、悪い軍隊」賊軍になると、官軍は「何をしても正しい軍隊」という意味になる。およそ世界中の軍隊で、何をしても正しい軍隊がかつて存在したことがあったろうか。こんなおかしな決めつけ言葉を無神経に使うと目が曇って、事象や歴史が正確に見えにくくなる。260年間戦争をしなかった江戸時代のあと、明治以後の日本は戦争続きの国となって77年間敗戦まで突き進んだ底流に、この官軍意識があったように思えてならない。


本紙2308号(2014年10月27日付)掲載





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