村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」71-日本産業革命の地・横須賀造船所―
小栗上野介、感染症にかかる
いま新型コロナウィルスによって世界中が混乱状況から抜け出せていない。少し横道にそれるが小栗上野介も幕末に感染症にかかり、大病を患ったことに触れておこう。
南町奉行から転じて1862文久二年十二月一日に勘定奉行兼歩兵奉行を命じられ、関口錐入れ場(文京区)の作業改善に取り組み始めたばかりの十二月中旬、小栗は感染症にかかってしまった。その症状は
「…病原体の活動性は激しく、脈は速く数多く打ち、舌には黒っぽい舌苔が付着している。うわごとを言い、意識が混濁して飲食物はのどを通らない。夜になると、手足をじたばたさせて発狂したかのようだ。…高熱はますますひどく…」(浅田宗伯『橘窓書影』・現代語訳:津田篤太郎)
何人かの医師が手を尽くしたが病状は改善しない。そこで呼ばれたのが幕末の名医と言われる浅田宗伯で、「少陰病期の膈熱(胸部の中央で炎症が起きている)」と診断し、薬を処方したところ、
「一昼夜にわたって安眠することができた。次の日、意識がはっきりして(見舞いに来た)親族が誰かも判別できるようになり、食事も少し食べられるようになった」
今の流行性感冒やインフルエンザのような呼吸器系の感染症が肺炎を併発したのであろうと津田篤太郎医師(聖路加国際病院)は見ている。
翌1863文久三年二月十五日に快癒して「床上げ祝」をしたと小栗家家計簿にあるが、もしこのまま病死していたら後世に名が残らなかった。それどころか横須賀造船所は存在せず、東郷平八郎が「日本海海戦で勝利できたのは横須賀造船所を小栗さんが造っておいてくれたおかげ」と小栗家遺族を招いて礼を言う場面もなく、日本の運命は相当変わっていただろう。
本紙2518号(2020年8月27日付)掲載
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