阪村氏のねじと人生
熱間フォーマー
熱間フォーマーは、ドイツを訪れたときに、鍛造加工は「熱間から始って熱間に帰る」ということだ。なぜなら、金型はダイヤモンドより硬いもの、靭性の優れたものは出来ないが、加工材は熱間域に入ると飴のように軟らかくなるため、閉塞鍛造で難形状のパーツがガラス細工のように自由に出来る。
独ペルツァー社の方式として、パンチ、ダイで密閉し、PKOパンチで内部から成型する熱間フォーマーを見せてもらった。
当時は、PKOパンチの冷却ができなかったため、軟化して膨らみ、現在のサカムラ熱間フォーマーでは冷却方法が開発されているので、それが出来るようになった。
サカムラ熱間フォーマーは、1台でベアリングの内輪と外輪が同時に出来るため、ポーランドの商談も成功し、実に年間10億円以上の利益が計上出来ることとなった。しかし、考えてみれば、すべてこれは従業員一人一人の努力で得た利益である。税金に支払うより通常の給料よりオーバーする金額を従業員に支払い、額面の3倍の金額で「阪村機械」の増資に充当してもらう方法を考えた。
国税局の承認を得て実行し、資本金3億円、払い込み金額9億円の会社にした。財務体質の強化は、常々母から「あると思うな親とカネ、ないと思うな運と災難」と口癖のように聞かされているからであるが、それが幸いした。
昭和48年(1973)2月に変動相場制に移行した円は急騰し、12月には狂乱物価となった。ナット業者も290社あったが、その60%にあたる173社が結集して日本ナット工業組合を設立し、ナットの値上げに入った。すると、問屋の仮需要も入り、たちまちナットの価格は2倍に上昇した。このため、アメリカのバイヤーは台湾、韓国へ2倍の価格で注文を出した。
これは儲かる―とみた各国でナットフォーマーの開発と生産が始った。
台湾の三星五金の天才的な発明家である李が超高速ナットフォーマーを開発した。蒋介石の「以徳報怨」が技術をもって開花した。ナットだけに絞った光とレンズの法則で焦点を焼いた。12億人の中国には天才がいる。
ラムストロークは短くしクランクシャフトはすべてSKFのベアリングで構成し、軽く手でフライホイールを回して仕打ちが出来る。
トランスファーは阪村機械の2倍剛性をもたした設計で、事故が発生しても、チャックの爪は壊れてもトランスファーは壊れない。
金型はダイ芯間いっぱいの大きい金型が用いられ、個別にダイブロック交換が行え、超硬のニブは後部の詰栓で脱着が図れる。超硬ニブの圧入はシュリンクケースの外形計測でシュリンクが見て分かる。
ナット成形の場合、鍛造荷重をまともにうけるKOピンはストレートの設計でセンターレースがかかるため半値でできる。また、耐久性は本ピンに圧入して用いるため、横型フォーマーの泣き所である重力によるKOピンの下への傾きがない。ストレートでパンチの負荷を受けるため、ダイスの底面も数倍は耐久性が良い。
サカムラナットフォーマーの弱点をよく研究し、解決してあった。これは戦えば必ず負ける。戦場となる日本の市場が独占の“ぬるま湯”でたるんでいる。信長が浅井に攻められ、命からがら京都へ撤退した様に、孫子の兵法36計逃げるが勝ちと判断した。
月産20台作っていたナットフォーマーの生産を中止して、即時ナットから撤退を行い、パーツフォーマーに方向転換を行った。この時に10億円の資本に充当していたお金が阪村機械を助けてくれた。
「治にいて乱を忘れず」
好況に浮かれず熱間フォーマーの開発を行い、市場開発を海外にまで拡張し、ポーランドをはじめ、各国からの受注を取り込む体制をつくった貿易部が助けてくれた。
有能な社員達であった。当時の貿易部で海外駐在していた高田は、現在「株式会社ジャパネットたかた」の社長として、300名の社員と共に年商600億円の家電製品販売をやっている。
森岡、樋口、松原は海外市場の開拓とパーツフォーマーへの転換に対する技術情報の収集に努力してもらった。且つその間、阪村独創の熱間フォーマーは「シマノ」と協力して自転車パーツのスクラップレス工法の開発へと傾注した。
社員は宝である。会社は不思議なもので、この一人一人の組み合わせで不可能を可能とする力が生れてくる「魔法の箱」である。
本紙2004年9月27日付(1945号)掲載。
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