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阪村氏のねじと人生

韓国とロータリーローリング

 「人は泣きながら生れてくる」シェークスピアの言葉であるが、これから始まる人生への苦悩をよく表している。
 人は、生れる親も、場所も、また、時代も選べないのである。今の韓国の人達も、たまたま20世紀に朝鮮半島という場所に生れただけであって、自分で選んで生れてきたわけではない。

 サンフランシスコ条約が結ばれて10年がたつというのに、日本と韓国との国交が再開されなかった。日本との国交は李承晩大統領が許可せず、不自然な状態が続いていた。

 そのため、朴少将らを中心とした軍事革命により、1963年朴政権が誕生し、1965年には日韓基本条約が正式に調印された。

 丁度、阪村がNP型ナットフォーマーを開発した年である。阪村は、国交がないため今まで漁船でヘッダーを密輸していた韓国の新生工業がどうしているのかそれを尋ねるべく、就航した日本航空の一番機で訪韓した。

 大邱には飛行場はなく、草原に着陸すると、米軍のバスが迎えにきて、駅前で降ろしてくれた。何もなかった。辛い、日本語がまだ通用する時期であったので、中古シボレーのタクシーをつかまえて、とにかく寝る場所を探し郊外の旅館で旅装をといた。

 翌朝、米軍ジープで新生工業の朴社長が迎えにきてくれた。お互いに発対面であるが、日本語で色々話をしながら新生工業を訪れ、工場案内をして頂いて驚いた。

 超高速のロータリーローリングが開発され、ボルトのねじ転造を行っているのである。日本ではまだ板転造の時代である。工具代は安くつくが、大型になると移動ダイはバケモノのような大きなストロークを要し、回転が上がらない。そのため、フォーマーとのインライン化が計れず困っていたので、早速輸入することとした。

 新生工業は、即時に月産5台の生産計画をたて、阪村機械からは飯塚、横川が生産管理と検査担当者として派遣する事が決定された。

 ロータリーローリングは安い、速い、そして簡単というので、よく売れた。日本経済は高度成長へと流れ出した時であったため、トーメンでは「50台ストックするから・・・」というように、大量注文が出た時である。朴社長は、ロータリーローリングの独占販売に対する代償として、阪村機械が開発したナットフォーマーにおけるナットの製造と、独占販売について打診してきた。

 韓国はまだ戦後である。5台もあれば、全韓国市場がまかなえる。方々に売って価格の混乱を起こすよりも、新生1社にし、その代わり売上げの10%をロイヤリティとして阪村機械の収入を図った方が得策ではないか―という提案である。

 丁度その頃、耐久性の悪かったナットフォーマーのパンチが、宮岡製作所のソルトバス熱処理によって、従来の10倍耐久性があるという驚異的なパンチが開発された。

 宮岡社長は呉海軍工廠にて、戦艦「大和」の46糎砲を鍛造していた職人で、独特のノウハウをもっていた。

 この驚異の工具がなければ、新生工業が約束を破ってもナットフォーマーを回すことが出来ない。国の条約でも力の均衡が崩れれば紙キレになってしまう。結局は、力対力が求心力を発揮する。ある時は資本力であるが、刻々と変化する現在では、変化に対応できる人と技術開発力であり、市場の創造力である。

 いずれから判断しても、この契約は成功すると確信し、ここに韓国における独占販売体制に調印した。

 ローリングは売れる、ナットは売れる―で両社とも繁栄したが、結局、軍事政権の献金問題とか、予想しなかった問題が発生し、この蜜月時代も3年で終った。

 その別れの時「しずやしず、しずのおだまき繰り返し、今も昔にするよしもなが」という源義経が吉野山で静御前と別れる時の歌を出されて驚いた。30年前の韓国には、まだそんな日本教育の余韻が残っていた。

本紙2004年8月27日付(1942号)掲載。


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