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阪村氏のねじと人生

自動車とねじ

 ドイツではダイムラーが点火栓の発明から、ガソリンエンジンを搭載した自動車を開発した。

 その頃(1875年)ボヘミアンのブリキ細工職人の子として生れた「フェルナンド・ポルシェ」は、25歳の時に自作の電気自動車を1900年のパリ万博に出展している。

 1926年、ダイムラーとベンツが合併し、同社の技術担当重役に招かれたポルシェは“メルセデスSSK”をはじめ数々の名車をつくっている。

 また、世界恐慌の失業からドイツを救うために、ヒットラーが全ドイツに張りめぐらせた「アウトバーン高速道路」の建設と、ドイツ大衆に夢を与えたあのフォルクスワーゲンのビークル「カブトムシ」国民車の開発にも協力し、成功している。

 第二次大戦後は、戦犯収容所からドゴール大統領に招かれ、その才能を認められルノーの再建を行っている。

 ドイツに帰国できたポルシェは、息子のフェリーの手によりポルシェ“356”のスポーツカーを完成し、「ポルシェ」の名を不朽のものとした。

 阪村としては、1928年、阪村の生れた年に航空機エンジンから自動車の開発をスタートさせた「BMW」の方に親しみをもっている。且つ独特の「KOVP」情報システムにより、数億通りの多種類組み合わせの生産を行って、キャッシュフロー伸び率24%を達成しているBMWには敬服している。しかし、車のエンジニアとしてはポルシェに魅かれるのである。

 特に生産工場では、マイスター制も併存し、車の1台ずつにバーコードを割り振り、車体やボディー、部品の在庫を同じコードで管理しながら、作業者には自分が組立てたエンジンにサインを入れさせている。

 塗装工程でも最終段階で人手による塗装を終るとテールランプで隠れる部分にサインを入れさせている。

 トヨタ生産方式を導入して効率化を追及しながらも、ドイツ的な職人気質を生かし、社員のやる気を引出すポルシェのやり方はその昔、堺で刀、煙草包丁に銘を入れ、作品を自他共に一体感の職人としての誇りを残す方法である。
このドイツを、戦後ここまで奇跡の経済発展をならしめたのは、ドイツの敗戦と共に東部ヨーロッパからのドイツへの帰還者たちの働きによるものである。
帰還者の数は1947年(昭和22年、阪村創業年)には1千万人に達している食べる物もなく、食料供給は1000カロリーが精一杯で、完全に餓死水準にまで落ち込んでいた。

 ドイツの戦後の再建は、こうした食うや食わずの貧しさの中から出発だったが、日本が朝鮮動乱の特需景気により、また共産主義のおかげで占領政策の変更があったように、ドイツにも東欧各国のソ連の占領東ドイツの成立、ベルリンの封鎖があり、アメリカはマーシャルプランによって、西ドイツを助けた。
そこへ東ドイツ、東ヨーロッパから1100万人以上の質の高いドイツ人労働力が西ドイツに流入し、ここに「経済の奇跡」を支え西ドイツの経済は急速に世界経済の中に再統合されていったのである。

自動車産業の拡大と共にねじ業界も大発展した。

 ドイツは、伸線の捲取りにトラバースを用いてボビン取りにして、搬送中の打痕傷を防ぎ、球状化焼頓、ボンデライト、二酸化モリブデン等を全て自社で処理し、最終ボルトの品質要求に最適の素材をつくって、フォーマーへ供給している。特殊なパーツは伸線して捲取ったボビンに何時何分までにフォーマーにかけよ―と時効硬化を読んだ賞味期限付きエフを付けてフォーマーに搬送されてきている。

 熱処理も、日本の連続炉で山のように積んで行うのではなく、1本ずつ焼入れテンパーを施し、検査にパスすると“BMW”の箱に密封された缶詰の状態で組立て現場に運ばれてくる。そのため異品混入などは起こるはずもない。この点はさすがドイツと感嘆し、いろいろ勉強した事を参考にして大阪に帰り、ここにいたり大宮工場(本社工場)の建設に入ったのである。

本紙2004年7月17日付(1938号)掲載。


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