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阪村氏のねじと人生

大型ヘッダーに専念

 他社にない機械、業界が求める機械を開発すると、開発した機械メーカーも儲かり、それを買っていただいた客先も儲かって喜んで頂ける。
 

 そのため、阪村機械は20ミリ径マンモスヘッダーから25ミリ径のC0―8型、更には世界最大の40ミリ径、長さ430ミリの超大型ヘッダーをつくり、アメリカに輸出した(30年経った現在も稼動している)。

 また、ボルトフォーマーの開発に対して「日本塑性加工学会賞」第1号の表彰メーカーとして昭和36年(1961)に受賞した。

 これを機会に、東京大学の濱野氏、東京工業大学の山本氏、横浜大学の工藤氏の3教授にこぞって(株)阪村機械製作所の株主となって頂き、産学協同による塑性加工、ねじ業界に対する力強い研究体制を確立した。

 ナットフォーマー1号機の開発に失敗し、多大なご迷惑をかけた松本重工業に対しては、日本に1台しかないという超大型ヘッダーを買って頂き、マツダのギヤーシャフトの冷間鍛造を成功させた。

 株主の先生方と、広島の東洋工業(現マツダ)を訪問した。後にロータリーエンジンの実用化に成功した松田耕平社長以下の重役陣と「冷間鍛造と自動車部品について」各先生方より講演をお願いし、その育成のために東洋工業が松本重工に発注している現状の切削加工部品をヘッダー製品に切り替え、同じ価格で買い上げて頂くことに成功した。松本重工の松本社長からは“ガチャンと一発打ったら45円儲かる”と大変喜んでいただいた。

 他方、昭和20年代に阪村を支えてくれたバネ捲機その他針金加工機の客先に対しては、その機械の開発や製作に専念して頂いた役員、社員の佐藤、堀井、宅見、そして協力会社の奥野機械に“のれん分け”(現在の会社)を無償で行い、図面からスペアパーツまで一式を譲渡し、アフターサービスと今後の仕事に対するお願いを行って、阪村機械はねじ機械、金型、ねじ製品と、いわゆるねじ分野に専念できる体制をとった。

 各役員、社員に独立して仕事を任せると色々な事が分かった。佐藤常務は鎖製造機、テレビチューナー捲線機の設計、製作に優れていた。堀井常務は伸線機、バネ捲機。奥野機械はバネに関する全ての機械について天才的な発明を次々と完成させた。

 しかし、結局成功したのは営業社員であった宅見が経営するバネ捲機の会社であった。関西では「アホは世をもつ、宝もつ」の諺がある通り、平凡な営業社員が客のニーズを摑み、安くて壊れないバネ捲機を作って成功している。

 ところで、昭和20年代に阪村機械がバネ捲機の市場シェアの大半を有していたのに放棄した最大の理由は、ピアノ線の硬い・軟らかいによって、完成品のスプリングバックからバネの精度にバラツキが出る。その度にカムを摺り合わせて微調整が必要であった。

 しかし、昭和40年代にNCが発明され、従来のカムにかわってコンピュータ制御が行われ、バネ機械に革命が起きた。パートのオバサンでもボタンを押すだけで、自由な形状・寸法のバネを生産することが出来るようになった。

 一方、ボルト・ナットの規格品は台湾、中国の輸入品に価格競争で負け、特殊なパーツへ移行するため、塑性加工における金型、パーツのスプリングバックにより所望の交差が出ないという皮肉な立場におかれる事となった。

 この問題をドイツではどう解決しているのか、その答えを見るためと、今後の方向性を求めるため、憧れのドイツへと旅立った。

本紙2004年6月27日付(1936号)掲載。


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