阪村氏のねじと人生
ロスアンゼルス
ロスアンゼルスは、名前の通り“天使の町”美しい町であった。
このロスアンゼルスに日本人の町がある。リトルトウキョウと言われているというので訪れた。
たしかに日本人町があったが、汚かった。日本にある朝鮮部落よりさびれていて、空しい感じを受けた。
このアメリカ白人支配は1620年に、宗教からの避難民としてイギリスの植民地開拓として、寒風吹き荒ぶ11月、メイフラワー号にてボストンのコッド岬に漂着した102名の移民により始まっている。
イギリスとの独立戦争後ドイツ、イタリア、ヨーロッパ各地の白人達により西へ西へと拡大し、ペリー艦隊を1867年にはミッドウエイ、1898年にはハワイ、グアム、フィリピンを占領併合していっている。そのため、1860年から始まったアメリカ大陸横断鉄道の建設に、移民として働いた日系アメリカ人たちは、太平洋戦争がはじまると、土地も財産も取り上げられ収容所にブチ込まれたが、同じ敵国でもドイツ系、イタリア系の白人達はアメリカ人として威張っていた。
合衆国とはいうがその当時は、いわゆる白色人種の国といってよかった。それでも、我々は“JAP”と呼ばれても同じホテルで食事をとる事ができたが、アメリカ人でも黒人は犬と同じで、入ることさえできなかった。
1960年代のカウンターカルチャー(対抗文化)旋風と、ベトナム戦争からマルティカルチュラリズムすなわち多民族相互の文化や言語、伝統を尊重し合う文化多元主義の時代に入り見違えるように変わったことは間違いないが、まだ1959年のロスアンゼルスは白人の天国であった。
特にドイツ系移民のねじ会社は立派であった。事務所もホテルのロビーのように美しく、植木が証明に浮き上がっていた。
工場内はナショナルの高速ヘッダーが航空機用ねじを毎分200本で圧造していた。ナットフォーマーはウォーターベリー製が主力であった。ナイロンが発明されており、ナイロンナットのブランクが圧造されていた。
ナイロンリングをカシメる中空の環は0・5ミリ厚である。とてもストッパーパイプでは耐久性がないと思っていたが、トランスファーチャックを下部から二重にグリップするチャックが設けられ、ブランクをつかむチャックがストリッパーパイプを兼用していた。柳生流の裸両手による“刀剣摑みどり”の秘法で、これはスゴイと思った。
ウォーターベリー社は、ペリー艦隊が日本に来たときに創業している。結局、彼らも宗教的には少数派であり、ジャガイモ飢饉と生活の苦渋からこの新天地に努力し、数々の開発を行い、今日の繁栄、アメリカンドリームを勝ちとっているのである。
「家貧にして孝子出ず、国乱れて忠臣でる」
結局日本は恵まれた国であったため“ぬるま湯”から出られなかった。しかし、今は敗戦国である。このアメリカの物量と富に負けた。
戦いに負けたが、命はある。工業学校で教えてもらった工の字は、無限の知恵と、無限の資源を結ぶ人になれ、と教えられた。
貧しい日本のために、徹底的にアメリカに学ぼう。絶好のチャンスに恵まれたのである。このチャンスは天が“何かしろ”と与えてくれたものである。
工場を訪れた夜はホテルに帰ると、工場建物とか使用している素材、加工の現場、出荷に至る機械設備や金型、製品を徹底的に思い出してスケッチ帳に書きとめた。分からなかった点があると翌日尋ねるか、再度見せてもらって、毎晩朝の3時ごろまでメモを残した。
就中、その当時のアメリカ人は親切で、実に詳しく教えてくれた。その1つでアメリカのフォーマーのねじが太いのは、ポパイのような力持ちの黒人が無茶苦茶にねじを締めているわけで、機械は設計の力学計算以外に、どんな人が使っても壊れない“設計”と“製作”をするもんだ―と、いろいろ教えて頂いた。
本紙2004年6月7日付(1934号)掲載。
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