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阪村氏のねじと人生

多段ヘッダー(ボルトフォーマー)

 英仏百年戦争でオルレアンを解放し、フランスを勝利へと導いたジャンヌ・ダルク(1412―1431年)も、あるいは大阪本願寺で信長を撃退した蓮如上人も、その力は「お文(ふみ)」であった。

 ジャンヌは自分のサインしか書けなかったが、各地の村落に対し「神を信じなさい」のお文にサインして配布した。

 彼女は19歳で処刑されているが、その22年後に神を信じたフランス民衆は完全に英国に勝利している。

 白隠(1685―1767年)の「常念観音菩薩」の書を電子顕微鏡(3万倍)で見ると粒子が充実し、整然と宇宙の気と合致している。これは不思議な力を持っている。

 現在の「お文」は心のこもったダイレクトメールである。

 阪村は、トヨタとは全く関係なかったが、当時の粗悪な日本の線材で「安全と信頼を求める自動車に適用するボルトを造る」には、ヘッダーだけでなく、リヘッダーが入用である。

 リムド鋼(当時トヨタは切削で造っていた)を、ヘッダーで圧造してトリミングを行うと、その中心部にあるサルファ折出層より頭部が割れる。

 リヘッダーで軸部を絞ってボルトを作り出すと、ファイバーフローが折れず、頭トビが発生しない。

 斯新なダイレクトメールを開発部に送信したが、それを見た楠木開発課長は早速来社され、ヘッダーとリヘッダーを一体化したボルトフォーマーを作れ!との事であった。

 トヨタの社長がフォードへ研修に行った時に、ナショナル社のヘッダーとリヘッダーを一体化したボルトフォーマーを見た―と言うのである。それでは、阪村で作らせるより、ナショナル社から買えばいいでしょうと言ったが、楠木課長は「いずれトヨタはデトロイトと一戦を交える時が来る。その時に備え、アメリカに勝つ機械メーカーを日本に育てておかなくてはいけない」という。

 かつて、米国は太平洋戦争が始まると、ルーズベルト大統領はGMの社長を兵器生産の局長に任命し、60万台のジープと、8千5百機のB―24爆撃機(63分で1機生産)を生産させている。4万3千人が働いた工場というが、ナショナルやウォータベリーの機械が活躍したから可能になったわけで、これからの自動車工業は新鋭機械の開発なくしては戦えない―という話である。

 このころは、やっと自動車の生産がアメリカ占領軍より許可されたいわばよちよち歩きのトヨタであったが「やがてデトロイトと一戦交える時が来る」という。なんて大きなことを言う人だろうこの人は―とその言葉には驚いた。

 しかし、ねじ業界に入った以上は、これを機会に日本にはないボルトフォーマーの開発に入ろうと決心し、昭和31年(1951)に「ボルト製造装置」として特許出願し、特許を取得するとともにトヨタ、日立、デンソーに納入した。

 米国ナショナル社は横型のため、多段式になると、フォーマーのフレーム幅が拡大し、ダイスの脱着に対する作業姿勢が悪くなるため、素材を上から切断し1番、2番、3番と下へトランスファーしてくる設計のタテ型とした。パンチ芯の調整も、チャックの調整も、作業者の眼の前で行えるため、作業性は抜群とのことで小型タイプはよく売れたが、大型になると片手でダイの脱着を行うため重くて仕事にならない。

 結局、M8以下のボルト専用となった。

 ちょうど同じ頃、ドイツのペルツァー社で同型式のボルトフォーマーの発表があり、スズキが1台輸入した。ナットフォーマーは佐藤螺子、一志螺旋、杉浦製作所が欧米の輸入機を導入され、阪村は松本重工の発注でウォータベリー社の5段式ナットフォーマーを参考にして開発に入った。

 しかし、ボルトフォーマーでは成功したが、ナットフォーマーでは完全に失敗した。

 先ず、ボルトに比べてナットは素材系が2倍あるため、切断でウォータベリーのクランクに設けたカムからの切断には多くの支点があり、その累積誤差が切断を悪くした。

 また、工具が要因である。ボルトはアプセットパンチの径が圧造品の4倍はとれるが、ナットは1対1である。更に、切断面のフローが流れずそのまま製品の上に現れる。六角トリミングが出来ないため、無限大に近い負荷がパンチにかかり、爆発する等々で松本社長には多大な迷惑をかけた。

 “ナットフォーマーの阪村”といわれているが、その1号機は無残な失敗に終わり、成功するまでに8年の年月を待たなければならなかった。

本紙2004年5月7日付(1931号)掲載。


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