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阪村氏のねじと人生

リヘッダーとねじ業界への参入

 阪村が日本国内のねじ産業に参入できたのは、東京自動機が製作していないトリーマー(日本にはなかった)の開発であった。

 昭和29年(1954)、台湾ヘプレスを改造した六角ボルト打ち抜き用のトリーマーを出荷した(前号参照)が、その時、辻田昇氏が六角トリーミングマシンで特許をとり、吉原自動機で販売した。

 シンプルで、美しい六角ボルトを、瞬時に打ち抜く吉原のトリーマーはタイミング設定に優れていた。

 日本における六角ボルトの生産合理化という点からみて、それは革命的といえた。

 その辻田氏と特許係争もあったため阪村は、六角穴付きボルト(ソケットスクリュー)と、六角トリーミングが行える「リヘッダー」を開発して、ねじ業界に参入した。

 ヘッダーでブランクをつくり、頭部に六角のパンチを打ち込む、または六角にトリーミングする。軸絞りを行えるため、ショルダーパーツが造れる。
いわゆる、ボルトフォーマー、パーツフォーマーの原型である。

 大型機は三菱工業にて製作し、1号機は浅川製作所に、インナーの冷間鍛造用として納めた。そして、ねじ業界へは妻の父「眞島安太郎氏」の遺徳をツテとして、有力メーカーとの結びつきができていった。

 眞島氏は昭和17年(1942)、ミッドウェイ海戦の年に亡くなっているが、明治31年(1898)に直線の切断機を発明し、昭和3年(1928)には寺内製作所にて、ボルトの冷間圧造に成功し、更に昭和7年には松下へねじ転造機を納めている。

 前にも述べたと思うが、6段打ちヘッダーで特許1073号を取得して、名古屋螺子の相澤氏の下で戦闘機「零戦」のねじ生産に活躍したという天才的な職人であった。

 その眞島工作所の紹介により、東京螺子製作所の遠山氏、名古屋螺子製作所の相澤氏、寺内製作所の大田氏等と取引きさせて頂くこととなったわけである。
さて、リヘッダーの開発と眞島工作所の紹介により本格的にねじ業界に参入した昭和30年(1955)は、「もはや戦後ではない」のエッセイと共に、自由民主党の保守合同が実現し、ソニーがトランジスターラジオを発表し、島倉千代子の「この世の花」、菅原都々子の「月がとっても青いから」の甘いメロディと共に、家庭電化製品の時代が始まった。

 電気洗濯機や冷蔵庫がブームになり、テレビが5万台も売れる時代となった。

 ねじ業界では戦後、山科精工所で研究していたプラスねじの冷間鍛造(毎分15本)が10倍の高速ヘッダーで打てる事となり、小型高速ヘッダーのブームが始まった。

 高速化に成功した要因はプラスパンチの輸入であって、機械の精度と線材の開発は、この当時はまだ国内では遅れていた。

 機械では、概ね米国ナショナル社の高速ヘッダーが輸入され、そのコピー機をアイダが作った。阪村ヘッダーにても、瀬戸螺子が35カーボンのプラスねじが打てた。

 材料では、大同特殊鋼の線材は軟らかく、頭の割れが発生しない―と評判になったが、よく調べてみると脱炭が進行しており、使い物にならない脱炭コイルであった。阪村は、これに対応させて、良い線材を鍛造工程に供給させるためにと、小型ヘッダーに伸線機を取り付けるという方法を開発した。

 伸線機の技術的な事等は印度に輸出し苦労したためよく知っていた。現在アメリカRMG社で販売している。スペースセーバータイプのドロワーをヘッダーに内蔵したわけである。

 送りロールに対して、伸線ドラムを45度の傾斜にし、線台をカッター側に一体化して設けたため、コンパクトなインラインドロワーつきヘッダーとなった。

 本機によれば、高精度線径管理が行える。タップタイト等の異形線が引ける。搬送中の打痕傷、小曲りもなく、変形態がよくなり金型寿命が向上する。等々の宣伝で数十台は売れたが、日本では伸線業界がキメ細かいサービスを行いねじ業界と密着しているため、昭和31年に生産を打ち切った。

 最近、インラインドロワーのPRを欧米のメーカーが行っているが、阪村では40年前のヘッダーに右の如くドロワーを内臓している。

「事を図るは人にあり、事の成るは天にあり」とのべられた「三国志」。

 孔明のこの名言に素直に従い、インラインドロワーの生産を中止した。

本紙2004年4月27日付(1930号)掲載。


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